これまでの章では、財務モデルを構築・分析するための具体的なテクニックを中心に解説してきました。しかし、真に価値のあるモデルを継続的に活用していくためには、より高度で大局的な視点が不可欠です。
この章では、モデルのライフサイクル(投資検討から事業管理へ)における課題、モデルの肥大化を防ぐ設計思想「YAGNI原則」、計算の「正しさ」とは何かという本質的な問い、そしてモデル全体の構造を規定する「シート機能」の最適設計について掘り下げます。これらの視点は、あなたが単なるモデリング担当者から、モデルを通じて組織の意思決定プロセス全体に貢献できるプロフェッショナルへと成長するための鍵となります。
投資検討モデルから事業管理モデルへの移行:実務上の課題と推奨アプローチ
財務モデルは、投資を検討する段階だけでなく、投資実行後の事業管理(予実管理など)においても重要な役割を果たします。しかし、実務では「投資検討時に作成したモデルを、そのまま事業管理にも使っていたら、次第に複雑化・陳腐化してしまい、継続使用が困難になった」という相談が頻繁に寄せられます。
なぜ投資モデルの継続利用は難しいのか?
投資検討モデルと事業管理モデルでは、その目的や利用可能な情報が大きく異なるため、投資モデルを微調整しながら使い続けることには限界があります。主な理由は以下の通りです。
- 勘定科目の粒度の違い:
投資モデルを作成する段階では、利用可能な情報に限りがあることや、各項目の重要度から、ある程度割り切った粗い勘定科目区分で設定が行われることが一般的です(例:販管費の内訳を「人件費」「広告宣伝費」「その他販管費」の3区分とし、それ以上は細分化しない)。
一方で、事業管理モデルでは、実績値を反映させる必要があります。その実績値は、会計システムから出力される、より詳細な勘定科目(例:人件費が「給与」「賞与」「福利厚生費」「雑給」などに細分化されている)に紐づいています。この粒度の違いを吸収するための調整作業が、モデルを複雑化させる大きな要因となります。 - 必要とされる機能の違い:
投資モデルでは、将来のキャッシュフローから借入可能額や最適な返済スケジュールを算出する「デットサイジング」のような、ゴールシークなどを用いた複雑な計算機能が必要とされるケースが多くあります。
しかし、事業管理フェーズでは、借入額や返済スケジュールは既に決定された「既知の事実」であるはずです。そのため、管理モデルにおいてはこのような複雑な計算は不要であり、入力項目としてシンプルに扱うことができます。
推奨アプローチ:0からの再構築
上記のような目的や構造の違いから、第一の推奨案は事業管理モデルを0ベースで再構築することです。
もちろん、将来計画の計算ロジックなど、投資モデルから流用できる部分も少なからず存在します。しかし、モデルの全体構造や前提条件の持ち方を、事業管理の目的に最適化して再設計することで、はるかに効率的でメンテナンス性の高いモデルを構築できます。
ただし、モデルの再構築にあたっては、将来計画の前提条件が不用意に変わってしまうことは避けなければなりません。レンダーをはじめとする様々なステークホルダーが、投資モデルで示された数値を拠り所にしているためです。もし前提条件の変更が必要なのであれば、その変更内容と影響について、十分に説明できる準備を整えておくことが不可欠です。
YAGNI原則(You Ain’t Gonna Need It!):モデルの肥大化を防ぐ思考法
財務モデリングに慣れてくると、「これもできるかもしれない」「将来的にこの機能が必要になるかもしれない」といった理由で、様々な機能をモデルに盛り込みたくなることがあります。しかし、生半可な実力があるが故に多機能化を追求した結果、モデルが不必要に複雑化し、誰も理解・管理できない代物になってしまうのはよくある失敗例です。
このような事態を避けるために、ソフトウェア開発の世界で支持されている「YAGNI原則(You Ain’t Gonna Need It! / それは要らない!)」という考え方が非常に有効です。これは、「必要のないものは、必要になるまで作らない」という、アジャイル開発の主要原則の一つです。
財務モデリングにおけるYAGNI原則
財務モデルを構築する際によく見られる「過剰な機能付与」の例としては、以下のようなものが挙げられます。
- 「為替レートの影響を加味するため、米ドルと円建ての計算を厳密に分けよう」
- 「将来的にモニタリングに使えるように、最初から月次でモデルを作成しよう」
- 「資金調達スキームが柔軟に変更できるよう、様々な調達トランシェを用意しておこう」
- 「ダウンサイドケースに備えて、追加出資のシミュレーションを構築しておこう」
- 「買収対象先の正確なP/L把握のため、現地の会計基準を詳細に反映しよう」
これらの機能は、本当に必要であれば実装すべきですが、「いつか使うかもしれない」という理由だけで追加すると、モデルの複雑性を増大させるだけです。
「必要十分性」を見極めるための2つの質問
では、何が必要で何が不要なのかをどう判断すればよいのでしょうか。モデル構築に取り掛かる際に、常に以下の2つの質問を自問自答することが有効です。
- この財務モデルを使って「答えたい問い」は何か?
この答えが、モデルのアウトプットとして定義されるべき項目です。例えば、投資検討モデルであれば、問いは「この投資は儲かるのか?」であり、アウトプットは「IRR」や「NPV」になります。 - この財務モデルを使って「伝えたいストーリー」は何か?
この答えが、モデルのインプットパラメータとして定義され、感度分析などで可変とすべき項目です。例えば、「この会社の成長の鍵は将来のM&Aである」というストーリーを伝えたいのであれば、M&Aの規模や確度などを詳細に設定できるパラメータを用意すべきです。極端なことを言えば、それ以外の項目(例えば対象会社の単独での財務諸表)は、固定値としてシンプルに持たせるという判断も考えられます。
財務モデルを構築している途中で、「これから必要になるかもしれないから…」という理由で何かを追加しようとしたら、このYAGNI原則を思い出してください。You are NOT gonna need it!
財務モデルにおける「計算の正しさ」とは何か?:意図の反映と許容される差異
私たちは日々の業務で「計算が合っているか、間違っているか」を常に意識しますが、財務モデルにおける「計算の正しさ」とは一体何を指すのでしょうか。この本質的な問いを考えることは、モデルの品質を評価し、他者と議論する上で非常に重要です。
計算の「正しさ」の定義
突然ですが、部下が作成した財務モデルの中に、売上を計算する数式として 単価 + 数量
というものを見つけたら、あなたはどう思うでしょうか? 普通に考えれば、売上は 単価 × 数量
なので、即座に「間違いだ」と指摘するでしょう。
しかし、もしそのプロジェクトがある特殊な契約に基づいており、「ベースとなる契約単価に、製品が1個売れるごとに1円の成功報酬が加算される」という条件だったとしたらどうでしょうか。この場合、(契約ベース)単価 + 数量 (× 従量単価1円)
という計算は、その契約内容を正しく反映しています。
この例が示すように、財務モデルにおける「間違い」とは、「意図した通りの計算」が反映されていないことであり、逆に言えば、どんな計算であっても意図が正確に反映されていれば、それは「正しい計算」なのです。計算の正しさは、一般的な常識や会計ルールだけで決まるのではなく、その計算が表現しようとしている「意図」と一致しているかどうかで決まります。
モデル計算値と現実との乖離は「エラー」か?
次に、「モデルの計算結果と、現実(例えば税務申告書上の数値)が一致しない場合、それはエラーなのか?」という問題を考えます。
例えば、消費税の納付額を計算するモデルにおいて、モデル上の計算結果と、実際の消費税申告書で計算された納付額が整合しないという指摘があったとします。担当者の言い分は、「消費税は法令で計算方法が厳密に定義されており、それに則っていないモデルの計算は間違っている」というものです。制度上の「正しさ」という意味では、その主張は正しいかもしれません。
しかし、ここで「モデル」というものの本質的な役割を思い出す必要があります。モデリングとは、現実の事象を単純化・法則化してシミュレーション可能にすることです。事象を単純化する以上、現実との乖離は絶対に発生します。税金の計算を法令通りに精緻に再現することも可能ですが、そうなっていないからといって、モデルの計算が即座に「間違い」だということにはなりません。それは、モデル作成者が必要と判断した計算の精緻さと、レビュアーが求めていた精緻さが異なっていた、という認識のズレの問題です。
現実とモデルの値の乖離は、必ずしも「エラー」ではなく、モデルの精度から生じる単なる「差異」であると認識することが重要です。
計算の精緻化はどこまで必要か?
それでは、モデルの計算はどこまで精緻化すれば良いのでしょうか。精緻な計算が意味を持つのは、以下の2つの条件を両方満たす場合です。
- 計算に用いられる入力値が、正確に予測可能である。
- その計算結果が、最終的な意思決定に大きな影響を及ぼす。
例を考えてみましょう。
- VCがスタートアップの売上高を予測するケース:
売上高は投資検討において重大な意味を持つため、②の条件は満たします。しかし、想定する単価や数量計画で実際に製品が売れるかどうか、その前提値そのものに不確実性が大きすぎます。①の条件を満たさないため、計算ロジックをどれだけ精緻にしても、アウトプットの正確性は上がりません。 - 事業計画で正社員の毎月の交通費を計算するケース:
採用計画や通勤ルートはある程度固まっているため、入力値は正確に予測可能です。①の条件は満たします。しかし、会社全体の事業計画を考える上で、交通費が正確に予測できたとしても、そのインパクトは軽微です。②の条件を満たさないため、精緻な計算に時間をかける意味はあまりありません。
まとめ
この考察からお伝えしたいことは以下の3点です。
- モデルにおける計算の「正しさ」とは、「意図した計算かどうか」によって決まる。
- モデルとは「現実を単純化」したものであり、現実との乖離(差異)は必ず発生する。
- 計算の精緻化は、入力前提値が正確に予測でき、かつ計算結果が意思決定に重要な影響を及ぼす場合でなければ、意味がない。
非常に複雑なスキームを持つプロジェクトであっても、上記の点を踏まえ、可能な限りシンプルなモデルを構築することが推奨されます。モデルが複雑化すると、意図と乖離した本当の計算エラーに気づきにくくなり、コミュニケーションコストも増大してしまうからです。
財務モデルにおける「シート機能」の最適設計:情報整理とメンテナンス性向上
財務モデルは、多くの場合、複数のExcelシートで構成されます。これらのシートをどのように構成し、分類するかは、モデル全体の分かりやすさ、メンテナンス性、そして拡張性を大きく左右する重要な設計要素です。
よくある失敗例:項目別シート分類
数多くの財務モデルをレビューしてきた経験から言うと、計算項目ごとにシートを分ける(例:「Tax」シート、「Depreciation」シート、「人員計画」シートなど)というやり方が最も一般的です。一見、シート名と計算内容が対応しているため分かりやすいように思えますが、この方法には大きな欠点があります。
各シートに計算値、グラフ、入力前提などが入り乱れる形となり、どこに何があるのかが分かりにくく、後からモデルを変更する際にメンテナンスがしづらい構成となってしまうのです。
推奨アプローチ:機能別シート分類
推奨されるアプローチは、シートを項目ではなく「機能」に基づいて分類する方法です。具体的には、財務モデル内の全てのシートを、以下の3つの機能カテゴリに明確に分け、構造的な階層を作ります。
- アウトプットシート (Output Sheets):
- 役割: モデルの最終的な計算結果(案件リターンや、財務諸表、サマリー、グラフなど)のみを表示するためのシート。
- ルール: このシート内で新たな計算を行ったり、前提となる値を入力したりしてはいけません。他のシートの計算結果をリンクして表示するだけに留めます。
- 計算シート (Calculation Sheets):
- 役割: モデルの心臓部。インプットシートの前提値から、最終的なアウトプットに至るまでの全ての計算を行います。
- ルール: PL計算シート、BS計算シート、CF計算シートのように、大きな計算ブロックごとにシートを分けることが多いです。このシートに、直接的な前提値(値貼り)を入力してはいけません。
- インプットシート (Input Sheets):
- 役割: モデルの計算の基となる全ての入力前提値(ハードコードされた値)を一覧で表示するシート。
- ルール: このシートでは計算を行ってはいけません。値貼りのセルが並ぶのみです。基本的には1枚のシートにまとめますが、プロジェクトのフェーズ(例: 建設期間と運転期間)などでインプットシートを分けることもあります。
シート構成の共通ルール
上記の3種類のシートに共通する重要なルールとして、以下が挙げられます。
- 時系列の列を全シートで統一する:
例えば、あるシートのN列が2025年度から始まっている場合、他の全てのシートにおいてもN列は2025年度でなければなりません。これにより、シートを跨いだ数式のコピー&ペーストや比較が容易になります。 - 時系列の粒度ごとにシートを分ける:
月次の財務諸表と年次の財務諸表を分析する必要がある場合、これらを一つのシートに混在させてはいけません。「財務諸表月次」「財務諸表年次」のように、2枚のシートに分けて表示する必要があります。
実際の案件におけるシート構成例
実務では、これらの機能別分類をより分かりやすくするために、「ディバイダー」と呼ばれる仕切り用の空シートを挟み込むことがよくあります。
Output>
(ディバイダーシート)FS_Summary
Chart_Sheet
Input>
(ディバイダーシート)Input_Operation
Input_Construction
Calc>
(ディバイダーシート)Calc_PL
Calc_BS
Calc_CF
機能別分類のメリット
このようにシートを機能別に分類することで、モデルの全体構造が非常に明確になります。例えば、減価償却費の計算ロジックを変更したい場合は、「Calc」カテゴリのシートを探せばよいとすぐに分かります。前提となる設備投資額を変更したい場合は「Input」カテゴリのシートを、最終的な財務諸表の表示形式を変えたい場合は「Output」カテゴリのシートを編集すればよい、となります。
このように、変更の目的に応じてどのシートを触るべきかが明確になるため、モデルの変更やレビューが迅速かつ安全に行えるようになります。
コメント