財務モデリングと聞くと、複雑なExcelシートや難解な数式を思い浮かべるかもしれません。しかし、その本質は事業やプロジェクトの将来を数値で予測し、より良い意思決定を行うための強力なツールです。この章では、財務モデルの基本的な目的、作成に着手する前に必ず押さえるべきポイント、そして質の高いモデルに共通する原則について解説します。これらの基礎を固めることが、高度なテクニックを習得するための第一歩となります。
なぜ財務モデルが重要なのか?その本質的な目的を探る
まず、財務モデルがなぜ多くのビジネスシーンで不可欠とされているのか、その核心に迫りましょう。
財務モデルの定義と活用シーン
財務モデルとは、事業の構造などを四則演算を通して分析可能にした計算ファイルのことです。簡単に言えば、Excelを用いて財務数値を計算していれば、それは広義の財務モデルと言えます。例えば、売上を「単価 × 数量」、費用を「売上 × 原価率」としてExcelで計算する行為も、財務モデリングの一環です。
これらは経営計画の策定、企業価値評価、コンサルタントによる事業分析、M&Aや融資実行といった重要な経営判断の場面で活用されています。驚くかもしれませんが、最先端の現場でも依然としてExcelが財務モデリングの主要ツールとして現役で活躍しており、財務モデルのプロフェッショナルはほぼ例外なくExcelのプロフェッショナルでもあります。
事業計画と財務モデルの違い:シミュレーションの可能性
では、普段作成している事業計画のExcelファイルが全て財務モデルと言えるのでしょうか?実はそうではありません。Excel上の計算が「財務モデル」であるための重要な条件は、計算したい項目が「シミュレーション可能」であるという点です。
例えば、1年後の利益予測が10億円だったとします。この予測に対して、以下のような問いに答えられなければ、それは財務モデルとは呼べません。
- 「この利益10億円の根拠となる売上の製品単価はいくらか?」
- 「製品単価が現状より10%高くなれば、利益はどう変動するか?」
- 「原価率が想定より4%悪化した場合、利益への影響はどの程度か?」
シミュレーション可能とは、突き詰めると「前提条件を変化させた際に、求めたい値を連動して正しく変化させることができる」という意味です。売上は製品単価や数量と連動し、原価は売上と連動し、利益はそれらや税金などと連動している必要があります。一つの前提条件の変更が、関連する全ての数値を自動的に再計算させる、この動的な連動性が財務モデルの核心です。
意思決定ツールとしての財務モデル
なぜシミュレーションが必要なのでしょうか?それは、財務モデルが使われる場面のほとんどが「意思決定の現場」だからです。
- 経営計画:「現状の事業戦略を実行すべきか?」
- 事業買収:「この事業を買収すべきか否か?」
- 融資実行:「融資を実行すべきか否か?」
重要な意思決定を行うためには、様々なケースを想定し、それらを定量的にシミュレーションすることで答えを得ようとするのが、財務モデルの最終的な目的です。計算そのものが目的なら、それは単なる集計作業であり、シミュレーション可能な財務モデルを構築する意味はありません。例えば、ある会社を50億円で買収することが100%決定している状況で、改めてその会社の価値をシミュレーションする財務モデルに大きな意味はないでしょう。
コミュニケーションツールとしての財務モデル
財務モデルの目的は意思決定だけではありません。もう一つ重要な目的は「コミュニケーション」です。大きな意思決定には、大きな説明責任が伴います。「なぜ今、この事業を買収すべきなのか」「なぜ人員を100人削減する必要があるのか」。こうした問いに対し、経営者や投資家は定量的で根拠のある答えを持つ必要があります。
財務モデルを通して、プロジェクト関係者全員が、事業の構造や将来計画の前提条件などを包括的に確認し、共通認識を持つことができます。財務モデルは、意思決定ツールであると同時に、関係者間の円滑なコミュニケーションを促進するためのツールでもあるのです。
Excelを開く前に押さえるべき2大要素:アウトプットと時系列の設計
精緻な財務モデルを構築するためには、いきなりExcel作業に取り掛かるのではなく、事前にしっかりと設計思想を固めることが不可欠です。特に重要なのが「最終的に計算すべき数値(アウトプット)」と「時系列の期間と粒度」の2点です。
最終的に計算すべき数値(アウトプット)の明確化
意外に思われるかもしれませんが、アウトプットが明確に設計されたモデルは非常に稀です。財務モデルは「意思決定のためのツール」であるため、何について意思決定を下したいのか、そしてその判断基準となる数値(KPI)は何かを最初に明確にする必要があります。
例えば、あなたが食品会社の部長で、食品機材メーカーH社の買収を検討しているとします。部下にH社の事業計画モデル作成を指示した結果、非常に精緻なシミュレーションが可能なモデルが完成したとしても、「それで、H社は買収に値するのか?」という最終的な問いにモデルが直接的な示唆を与えられなければ、その価値は半減してしまいます。財務諸表を計算するだけでは事業の全体像は掴めますが、最終的な意思決定に結びつかなければ意味がないのです。
時系列の期間と粒度(年次、半期、四半期、月次)の決定
次に決めるべきは、モデルがカバーする「時系列の期間」と、その期間をどのような「粒度」で計算するかです。
- 期間: 例えば、2025年1月1日から2029年12月31日までの5年間なのか、といった具体的な対象期間を定めます。
- 粒度: 年次、半期、四半期、月次のいずれかで計算するかを決定します。
これらをExcel作業開始前に決定しなければならない理由は、財務モデルの性質上、これらを途中で変更することが大きなリスクを伴うからです。特に、時系列の粒度を粗くすること(例:月次→年次)は比較的容易ですが、細かくすること(例:年次→月次)は基本的に不可能です。年間の値を単純に12で割って月次の入力値とするようなモデルは、月次モデルである意味がなく、無駄に計算量が増えるだけです。
粒度設定のトレードオフ:精緻さと計算負荷
では、最初から最も細かい月次で作れば良いかというと、そう単純ではありません。月次モデルは年次モデルに比べて精緻である一方、考慮すべき点も格段に増えます。例えば、固定資産税の賦課期日や納付タイミング、法人税の中間納付、売上や費用の入金・支払タイミングなどを月次レベルで正確に把握し、モデルに反映させる必要があります。
さらに、アウトプットの粒度を月次にするということは、インプットも月次で用意する必要があることを意味します。年間売上目標しかないのに月次の売上単価や数量を無理やり作り出すのは本末転倒です。
粒度を細かくすれば詳細な事業計画を作成できますが、入力前提も細かくなり計算量も増加します。逆に粒度が粗い年次計算では、モデルの前提条件がシンプルになり、計算量も減ります。このトレードオフを理解し、モデルの目的に照らして最適な時系列の期間と粒度を見極めることが肝要です。
優れたモデルの共通項:FAST原則(柔軟性・必要十分性・一貫性・透明性)とは
質の高い財務モデルを効率的に構築するためには、世界中のプロフェッショナルが共有する基本原則を理解しておくことが有効です。その代表的なものが「FAST Standard」です。
これは、財務モデリングプラクティス発祥の地であるイギリスの非営利組織 The FAST Standard Organisation Limited (FSO) が提唱している概念で、属人的になりがちな財務モデリング業務の標準化を目指して作られました。FAST原則は、以下の4つのキーワードの頭文字から成り立っています。
- F: Flexible(柔軟性)
モデルはシミュレーション分析を行うためのものです。特定の前提条件で計算するだけでなく、様々な前提条件の下で正確に計算が行われる必要があります。柔軟なモデルとは、多くのモデル利用者にとって、前提条件の変更や結果の確認が容易なモデルを指します。ここで注意すべきは、あらゆる場面を想定して複雑に組まれた、天才にしか理解できないモデルは「柔軟なモデル」ではないという点です。むしろ、柔軟なモデルはシンプルに作成されていることが多いのです。 - A: Appropriate(必要十分性)
財務モデルは、対象ビジネスを抽象化(モデル化)し、Excel上に数理計算として表現したものです。つまり、現実の世界をある程度単純化する作業が伴います。単純化しすぎると必要な情報が得られず、逆に現実を忠実に再現しようとすると、モデルが過度に複雑になり実用的でなくなります。モデルの必要十分性とは、このバランスを指します。この判断は経験則が求められる部分であり、経験豊富なメンバーを議論に巻き込むことが推奨されます。 - S: Structured(一貫性)
財務モデルは、作成者だけが理解できれば良いというものではありません。モデル利用者が適切に理解し、使いこなせる必要があります。そのためには、ワークシートの配置、セルフォーマット、数式の組み方などについて、一貫したルールに基づいて作成されていることが不可欠です。共通ルールを定め、それに従って作業することは、他者の理解を助けるだけでなく、作成者自身の作業効率も格段に向上させます。 - T: Transparent(透明性)
モデル内に含まれる計算ロジックの分かりやすさが、モデルの透明性です。理想的には、モデルを印刷し、セル内の数式を見なくても、ラベルとその並びだけで計算ロジックが理解できる状態を目指します。透明性を低下させる最大の要因は、長く複雑な数式です。もし数式があなたの親指2本分を超えるようなら、そこには複数の条件分岐やタイミング設定などが詰め込まれている可能性が高いでしょう。それらを一つひとつ分解し、Excelの複数行を使って記述することで、モデルの透明性は飛躍的に向上します。
FASTの概念は、財務モデリングに携わるすべての人にとって、モデルの品質向上、コミュニケーションの円滑化、そして組織全体のモデリング能力向上に繋がる重要な指針となります。
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